ゴジラ-1.0を観てきたっつーのって話・・・

ということでゴジラ-1.0を観てきたのである。


観る前に予想していた、

・全編に渡って繰り広げられるいちいち不自然な劇画調のセリフ
・加えて役者が繰り出す変なテンポの会話(基本必要以上に変な早口でまくしたてられるのがパターン← これマジでどういう理由でそうなるのかがわからん←昔の失敗したトレンディドラマがそうで薄ら寒かったっす)
・役者A「なんとかかんとかー!」→役者B「なんとかかんとかー!」と二人がひたすら怒鳴り合う、そして、これがパターンとしてシーンを変えながら最後までひたすら繰り返される
・役者がしゃべっている時は、テレビドラマみたいにいちいち顔を絶対抜かなきゃならない決まりがあんの?というくらい画角が一緒(ゴッドファーザーが有名ですが、上から撮ったりして口元を隠したりするのは映画の非常に基本的かつ代表的なテクニックね・・・)
・最後はそれまでのストーリーを完全にシカトして、なぜか強引に感動のフィナーレに持っていき、そのわけのわからん感動を観客に押し付ける

という近年のジャップ映画のフォーマットは思っていた以上にきっちりと完璧に踏襲されていて、最初にゴジラありきではなく、このフォーマットにゴジラを組み合わせたというのが映画の構成である。そもそもゴジラ映画に感動を求めて客は観に行ってんのか?というのははなはだ疑問だが、とにかくこのフォーマットから離れたジャップ映画にはここ最近出会ったことがないので、まあそういうものだろうと理解するのがむしろ正しいような気がするのである。


*ちなみに上記が気になりだしたら映画の内容は基本全く頭に入ってこなくなるので要注意である


また、これは完全に個人的な感想だが、演技の評価が高い某女優も自分の中では全然NGなのである。なんというか、自分が上手いと思って演技しているのが見えてしまうというか、彼女が出るとそれまでの監督が作ってきた映像感覚というか、場が見事に毎回崩れて彼女の世界の雰囲気になってしまうのである。これも、自分の場合は気になってしまい、ますます作品の中に入っていくのが困難になる要素で、作品として考えると毎回発生してしまうこの現象は結論としてマイナスにしかなっていないと思う(別の理由ではあるが某フランキーも同様にそもそもなんでこんなやつ好き好んで使ってんの?と思ってしまって、そればかりが気になって、映像に集中できなくなってしまうのである、ジャップ映画の監督はみなさんやたらこのお二人を好きですよね?全然いいと思わないのだが)。





さらに、これは既にネット民の間で語られていることであるが、映画としておかしな点も色々とあった。


なぜか主人公が銀座で同居人を探せだしてしまうのは正にみなさんがツッコミを入れているところで荒唐無稽もいいところであるが、そんなことより、ゴジラが建物をよけて道を歩いてしまっている、という、致命的なミスをこの映画は犯してしまっている。これではゴジラ映画ではないのである。ゴジラ映画の爽快感というのは、このビルや電柱、駅などを踏んづけてぶっ潰して進んでいくところにあるのである。この映像的な快感を観に映画館に足を運ぶのがゴジラ映画を観る理由の一つなのである。それは決してしっぽで建物を壊すという行為に置き換えていいというものではなく、この監督はこういう根本的なゴジラ映画の部分をわかってないんだなーと観ていて相当がっかりさせられたのであった。テレビドラマならアリだとは思うが、映画の場合はあのでかいスクリーンで観るという前提があるので、ある程度の映像美はどうしても必要になってくる。そういう意味では、ゴジラちゃんに華麗に街をぶっ潰して頂くという絶好のネタをこの監督は一切うまく使えていなかった。


まあ、CGでこれをやるのが単に面倒くさかっただけなんだろうが(時間的制約とか、レンダリングのCPU/GPUパワーの限界もあるもんね・・・)、そういう精神性も含めていかに昔の日本人がすごかったことか、というのもわかろうというものである。仕事に対する考え方が根本的に違うということなのだろうが、昔の日本人はそれは命を削ってディテールに徹底的にこだわりギリギリまで作品を作り込んでいたのである(だからこそ海外にウケたわけで)。


他にも、

  • 最後のゴジラの死に方(なんか変な放射能みたいのを発して死ぬ?みたいな作り込まれてなさが非常に適当に見えて気になった)

とか、変なところは色々あった。主人公がなんで最後にああいう役を買って出たのかをセリフで長々と説明するのも、観客はそれまでのいきさつをずっと観てきたのだから全く不要なのに、わざわざワンシーンにしてしまっているので、映画のテンポが崩れ、無意味に尺が長くなってしまっているのである(ドライブ・マイ・カーが正にこれね)。



といった些細なことはいっぱいあるのだが、とにかく「映画として」「ゴジラ映画として」という観点の部分で非常に基本の基本を抑えることすらできておらず(まあ近年のジャップ映画みんなそうですが)、まあジャップ映画界の人材不足、才能不足を露呈してしまっているのもいつものことではあるが、これが現実かという感じだった。もっと言うと、そもそも2023年にもなって未だにゴジラをひっぱってこなっきゃならないということ自体が終わっているといも言えるであろうから、それが現在のジャップランドの現実&悲しい実力ということなのであろう。




絶賛されているCGも自分は特になんとも思わなかった。極めて普通のサプライズが何もない優等生的なCGでしかなかったと思う。ゴジラがパワーをためる時の尻尾のウロコひとつひとつが「バリバリ」となっていくところも、そういう映像を見せたかったというのは伝わってきたが、それが作品の流れの中では必須の映像表現だったか?と考えると疑問だったりして、実写ではなくCGだからできるというところを全体的にはうまくアピールできていなかったように思えた。登場人物の間近にゴジラの足がドン!と降りてくるのは、ちょっと立ち止まって数秒考えれば出てくるような薄っぺらいアイデアで、CGなのだからもっと光源をうまく利用した見せ方(これはピクサーの作品は一貫してこれをCGだからこうしなきゃね!ということでやっていて、CPU/GPUのスペックは日進月歩であがっているので、作品毎にそのテクニックの進化ぶりをちゃんと映像作品として記録できています)や、CGだからこそできる異様なアップからの引きや、CGだからこそできる今までの映像的には不自然かもしれないレベルの画角(別に内臓から始まって外に出ていくとかできるわけで)などは全く使われていなかったのである(というか、アイデアとしてもスタッフの間で出てなかったんじゃというレベルのように感じましたが・・・)。これでは、ありきたりの作品になるべくしてなったと言われてしまってもしょうがないだろう。




ということで、岡田斗司夫は「日本映画の到達点の一つ」と言っていて、思わず「うっそーん!」と叫んでしまったが、自分的には前述したとおり、近年のジャップ映画にありがちな、役者がひたすらどなり合う→最後わけわかめの感動、というストーリーはあってないレベルの簡素なもので、量産されているいつものフォーマットありきの作品でしかなかったように思えた。ただし、みなさん一生懸命比較しておられるようだが、シン・ゴジラよりは作品としては数段マシだと思う。それは比べものにならないくらい、基本的な部分の「映画とは」という点で、ゴジラ-1.0の方が映画として勝っていると思う。


ただし、ゴジラ映画というか怪獣映画としては非常に稚拙で、なんであんなにゴジラが怒っているのかの説明もなく、ただ怪獣がなんか適当に暴れているだけ(それにプラスしてクソどうでもいい人間側の寸劇が挿入される)という構成は非常に厳しいものがあると思う。ゴジラだけじゃなく、ウルトラQなんかもそうだったが、怪獣映画や特撮という世界の作品は子供向けなのに裏で深い制作者の思いがこめられたりして、それは子供の自分でも十分に感じることができ、できたからこそその作品の世界にどっぷりと浸かることができたのである。ゴジラ-1.0にはそういう作品としての懐の深さのような全くなかった(もちろん、なきゃダメなんて決まりはありませんが)。




という感じで、今の怒られたことがなく育った若い世代にはこんな拙文でもディスに見えてしまうのであろうが、これが自分が映画を観終わった後に思ったただの正直な感想である。そこにポジティブとかネガティブという概念は存在しないし、観た自分がどう思おうと自分の勝手なのである。これが正しい多様性のあり方なのである。


だがしかし、一般のマス(大衆)は観客として、こういう怒鳴り合い→薄っぺらい感動、というのを心底求めているのだというのを、鈍感な自分も今回やっと気づくことができた。わざわざゴジラ映画にまでこういうものを求めて、わざわざ映画館にまで観に行っているというのが、現代ジャップ民のマスなのであるということに、知能低めの自分もやっと気づいたのである。


そう考えると、やはり日本という国はいつの間にか変質&変容したのだと思う。社会学的に語ると、日本という国はもうなくなって、今この極東の島にあるのは日本ではなくジャップランドという全く別の国なのだと思う。この、ゴジラ-1.0は正にそのジャップランドのランド民向けにつくられた、欧米のような善と悪というはっきり2つに別れた同士が争うという単純な構造であったし、薄っぺらい感動も、感情を表すためには怒鳴るしかないという幼稚な手段が優先される有様も、過去の日本人にはあまり見ることができなかった精神性である。そもそも日本は欧米笑と比べるとグレーゾーンの割合が広く、それがよくも悪くも特徴になっていた国だったのである。


*例えば、「スターウォーズ」という映画は基本黒澤の七人の侍のリメイクのような作品ですが、ジョージ・ルーカスはその善と悪にはっきりと別れない日本的な概念を理解することができず、それを「ダークサイド」と表現しました


自分は子供の頃に成瀬巳喜男の「浮雲」という映画を観て、これが、「戦地で作った愛人が終戦後に自宅に訪ねてきてしまって(すげー笑!)、関係を断ち切ることもできずひたすら二人でウダウダする」という内容で、そのグレーゾーンの中で漂う日本人の様にいたく感動した記憶がある。最初はよくある反戦映画だと思って観たのだが、そんなクソみたいなありがちな概念をあざ笑うかのように、人間の本質的な業について映像作品として表現してしまう監督の才能にもいたく感心したし、そのウダウダさを見事に演じきれる役者の力量にも驚かされた。


原作は林芙美子の小説で、いかに昔の日本が男女の差別なく優れた作品を正当に評価できていたことにも感心させられる


それとは対照的に、現代ジャップランドのジャップ民はしけた欧米笑の人みたいになっていて(なんで鏡に移る自分はただのイエローモンキーでしかないことを正しく認識できないんですかね?そんなサルがベジタリアンとかエコとか言っても・・・)、昔の日本的な奥行きや懐の深さを有してないのだろうと、ゴジラ-1.0を観て改めて思わされたのである。そして、これはいいとか悪いとかの話ではなく、そういうものだということでしかないのである。現代ジャップランドのジャップ民に、「昔の日本人に戻れ!」というのはただのタワケでしかない。そんな義務などあるわけもなく、これからもジャップ民はジャップ民として普通に生きていくだけなのである。


そんなことをこの作品を観て考えさせられたのである。早い話、このジャップランドには、自分のような古い老害でしかない弱者男性の居場所はないというのが結論なのである。じゃあ、今後どう生きていけばいいのか。正解は、生きさせてもらっているだけで感謝し、マイノリティとして日陰でひっそり暮らしていくことなのだろう。マイノリティとはそんなもんである(だからこそ、今で言うLGBTはマイノリティでもなんでもないわけで)。


どうしてこうなってしまったのだろうか。とかくこの世は住みにくい、とはよく言ったものである。なんか誰も幸せになってないという本末転倒さがあるような気がしないでもないが、そんな世相や雰囲気をジャップ民がわざわざ好き好んで選択したというのは非常に興味深い現象なのである。昔の日本と比べて、前進しているのか、それとも、後退しているのか?それとも、単に何かを失った代わりに、何かもっと大事なものを得たということなのだろうか?そこらへんの正しい答えを知りたかったりするのである。