「首」も「アンダーカレント」も「月」も観てきたんだっつーのって話・・・

そんなわけで、ゴジラ-1.0を観て悲しくなってしまったのもあって、北野武の「首」と細野さんが音楽やってた「アンダーカレント」とついでに「月」も観てきたのである。


以下、ざっくりな感想。




  • 近年のジャップ映画の特徴である、役者A「なんとかかんとかー!!!」→役者B「なんとかかんとかー!!!」と二人で怒鳴り合うシーンが場所を変えて延々と繰り返される→最後は今までのストーリー関係なくいきなりお涙頂戴の感動のシーンが無理矢理挟み込まれエンディングを迎える、というフォーマットからは見事に抜け出すことに成功していた、さすがに北野監督はこの手法を採らなくても映画を一本作れるということか
  • 映画のストーリーの中で狂言回し的な役がいたのだが(「乱」の時のピーターみたいな)、無理してこのキャラを使う必要あったかな?というのが率直な感想、この人の尺を他に使った方がよかったような気がした、ゴッドファーザーのような重鎮たちの重厚な人間模様やパンチラインだらけの濃ゆいセリフの応酬みたいのは北野監督といえ書き切るのが大変だったか、もしくは、観客がどうせわかんねーからとあきらめてしまったか(←こっちの線が濃厚かと)
  • ゲイのテーマはテーマとしては古いというかいまさらというかだからなんなの?くらいにしか思わないのだから、匂わせる程度でよかったような
  • キャスティングも極めてありがちというか特にハマり役もなく、もうちょっと選択の幅があった方がよかったように思えた、結局、今人民が見離そうとしている芸能界ムラの人たちの馴れ合いのような現場の雰囲気がスクリーンにも出てしまっていた、これも監督はあきらめてしまったか
  • 本人が出る必要あったのか?も大きな疑問として印象に残ったし、観ている最中もそれが気になりはじめてしまった、やはりネット民が言うように何をしゃべっても全部がフガフガに聴こえて、耳をこらさないと聞き取れないレベルのセリフもあった、これはかなり致命的だと思った
  • 侍になろうとしたお百姓さんのプロットがあるのだが、かなり消化不良な感じで扱われていて、これももしかしたらいらなかったかもしれない、そもそもたいしたプロットではなかったし
  • ラストシーンは館内の全員が「え?」となったのが雰囲気でわかるくらいの唐突な終わり方だった、ラストシーンも映画では最も難しいパートの一つだが(だから多くのジャップ映画は泣いてごまかすわけだが)、北野監督ならもっと絞り出せたであろう
  • 以上を簡単にまとめると、かなりグダグダ感のある戦国時代のコント集、しかも、テレビの中から出てきたようなたけし傘下の芸能人によって作られた、みたいな映画だと言えるであろう

という感じか。


!!!ただし!!!、北野監督の場合は意図的に撮る内容のレベルを落として映画を作っているのは明らかで、それはアウトレイジのヒットによって路線的にも決まってしまったのだろうなーというのをこの作品を観て改めて思った。やはり、監督としてのピークは初期にあって、「その男、凶暴につき」「3-4X10月」「ソナチネ」と凄まじい作品を残しており、それぞれが文句のつけようのない素晴らしい映画(というか映像作品といってもいいくらい芸術性も高い)なのだが、今この内容をやっても怒るか泣くかしか感情がない現代ジャップランドのジャップ民には全くストーリーや映像の意図が理解されないだろうし、それどころか、ネットではつまらんの大合唱になってしまって、アホ側が勝ってしまうレベルで受け入れられないに違いなく、だからこうなってしまったんだろうなというのも観ていて思ってしまって悲しかった(それにしてもだとしたらジャップ民は民族としてなかなかに罪深いですよね、そもそも、初期の北野作品だってイギリス人が見つけてフランスで認められて逆輸入の形で評価されたりしたわけですが)。

*ちなみに「ソナチネ」は当初「沖縄ピエロ」という仮題がついていたように、「気狂いピエロ」をベースに撮られたのだが、完全にただのコピーから脱却して北野武自身のテイストがしっかり入ったオリジナル作品に仕上げることに成功している、これもジャップランドではかなり稀な例で、普通はただ単に丸々テイストをコピーして終わりである




それにしても、初期の北野作品はその後の韓国映画(例えばキム・ギドク監督の作品のような)とはまた違ったヒリヒリ感がありましたね、この予告編も本編では全く使われない映像があったりして、おおおと思わされたものです、それが色々あって「アウトレイジ」とか「首」みたいなのどかな作品を作るようになってしまったわけで・・・


ということで、もちろん楽しめない作品ではないが、なんかテレビっぽさが強すぎてもうちょっと映画感がほしいというのと、ストーリーというか脚本もそんなに優れてなかったというのと、レベルを落として作っている分、ストーリーやカット割りで遊ぶことができないため、このレベルの仕上がりになってしまう、というのがネックになって、60点くらいの作品になってしまっているのが、この「首」という映画なのだと思う。監督はアウトレイジの最終作でも海外の賞を狙っていたようで、それには驚かされたが、この作品も海外というか欧米市場で評価されるのはちょっと無理。こういうのを欧米の人は求めてないからね。




アンダーカレント


これは細野さんが音楽をやっているからというので、わざわざ映画館に足を運んだという感じだったのだが、ゴジラ-1.0のひどさの後に観たので、なかなかに楽しんでしまったのだった。


これも簡単な感想を書くとすると、

  • 繰り返しになるが、現代ジャップ映画の黄金のフォーマット、役者A「なんとかかんとかー!!!」→役者B「なんとかかんとかー!!!」と二人で怒鳴り合うシーンが場所を変えて延々と繰り返される→最後は今までのストーリー関係なくいきなりお涙頂戴の感動のシーンが無理矢理挟み込まれエンディングを迎える終わる、のうち、「なんとかかんとかー!!!」の部分はこの映画には全く存在しない、基本極めて静かな映画である、この静かさは新鮮というかあえてうるさくする必要は全くないのが改めてわかったりしてよかった、ただし、最後は「はい、みなさん泣いて下さーい笑笑」というシーンがそれなりに突然出てきて、最後の最後にそれをぶちかまされてすごくがっかりさせられた
  • こういう映画はここぞとばかりに某フランキーが出てくるのだが、今回もやはり出てきてうなだれるレベルでがっかりした、「僕って芸能界の中での立ち位置もセンスいいし、やってることも面白いでしょ?」みたいのはもうさすがにお腹いっぱいなんすよ・・・とずっと思いながら観るのはキツイっす、マジでそろそろもう他の役者探してきてもいいんじゃないですかね?監督のみなさん、毎日同じ献立だと飽きるんですよ、とはいえ、一般人の中の自分はイケてる方だと思っている人たちはこれからもずっとこの方のやることなすことにウケてしまうんでしょうね・・・、さすがに飽きたりしないんですかね・・・
  • 演技力というのは、まあジャップ映画を観る時は忘れた方がいいくらいの項目なのだが、この映画で一番演技がうまかったのは銭湯に来てた女の子だった、これに絶望してはいけないし、する必要もないが、それでいいのかという気はした
  • 映画の中身の話をすると、そもそものストーリーが不自然すぎる、さすがに昔の知り合いが職場に戻ってきたらわかるでしょうに・・・、原作も読んでみる予定だが、そういうストーリーなのだろうか?
  • 細野さんの音楽はかなり限定されたシーンでちょっと使われる程度で、たしかにこの映画ではこの頻度で使うのが正しいように感じられた、アナログ盤が発売されるらしいので今から楽しみである


そんな感じで、今回の3作品の中では一番ちゃんと映画として成り立っていたのは圧倒的にこの作品である。その割に若干、主義主張というかどういう映画なのかみたいなところがぼやけてしまっていて(まあ原作があってそうなってしまっているのはわかるけど、それにしてもふわっとしすぎなような)、もったいないとも思うのだが、最低限のレベルはクリアしているので、変にストレスを抱えながら観るということにはならず、なかなかに楽しんで観ることができた。




  • やっといわゆる典型的な現代ジャップフォーマットの映画がここにきてお出ましなのである、最初は色々頑張っていたが途中から、役者A「なんとかかんとかー!!!」→役者B「なんとかかんとかー!!!」のシーンが場所を変え繰り返し出てきて、最後はよくわからん感動のシーンをたたみかけるという黄金コースの映画であった、観客の誰もが全く泣いてなかったけど
  • 一番最初のシーンがとてつもなくひどくて、なぜか夫婦が朝食のシーンで自宅のダイニングテーブルに横に並んで座って(ありえねーだろ1)、妻「ウインナーあげる」夫「じゃあ卵焼きあげる」(ありえねーだろ2)というクソキモい会話をするというシーンからはじまるのには違った意味で衝撃を受けた、こういう自分のやってることがキモいと感じとることの出来ない人間は世の中に一定数いるが、最初のシーンでこんなの好き好んでぶちかますかね?、信じられないにもほどがある、オープニングにこれ持ってくるってことはこれがすごいいい感じの表現だと思っているってことなんで・・・
  • ストーリーは元々原作者がウルトラパヨクなわけで、そういう視点で描かれるのはしょうがないが、きっと監督もパヨクなんだろうなと(ちなみにパンフには某イソコが登場・・・)、まあ日本の映画界はパヨク桟敷ですから・・・(そもそもミニシアターってパヨクのシノギですからね)
  • 宮沢りえの演技にかなり期待して観に行ったのだが、決して下手ではないが、舞台向けの演技をしてしまっていて、これがかなり不自然でちょっとどころじゃなく厳しかった、韓国映画とか見たことないのだろうか?というレベルで、映画で使うのは厳しいかなという感じ、期待していた分だけなかなかにがっかりした
  • 対して、二階堂ふみはかなり頑張ってた、でもこの人も同じく映画ではどうかという感じ、テレビドラマ的な演技というか、映画の場合はある意味役というよりは自分の内面も出し切る度胸みたいのが必要かと、日本の役者はみんな演じる直前にパラサイトとか観てから演技すればいいのに
  • 他の役者は全員どうってことなく、男の役者の方はどの子も背は高いし顔もかっこいいのだけど、どの人も独特の色気みたいのが皆無で「あーいつもの感じね・・・」と思ってしまった、こういう無機質&人畜無害なタイプの男をパヨク監督は好きってことなんだろうか?自分が女だったら全然濡れない


映画のテーマに関しては自分みたいな社会の最底辺のミジンコがどうこう意見を述べることができるようなものではない(みなさんそこについて語ってますが答えなんか出ないっすよ・・・)。ただし、原作がそうなのであろうが、ストーリーは極めて凡庸で正直、目新しい情報や視点を感じることはなかった。自分が一番疑問に思ったのは、加害者がなぜこういう行動を犯してしまったのかという部分については、劇中で説明していたが、なぜその考えに至ったのかという部分については触れていなかったところである。最終的に加害者の方は統合失調になったというのがこの事件を起こした原因らしいのだが(本人は裁判でそれを否定している)、それにきちんと触れないと、知能レベルの低い観客の不要な怒りを買ってしまうだけだと思った。というか、そうやってわざとアホを焚き付けるというやり口は元々レガシーメディアが得意としているところなのだから、そういうことを扇動的にやったということか。なんというか作品に生じる説明する義務を意図的にはぶいている、というのがいつものパヨクのやりくちであーまたかと思ってしまった。


実際の加害者の方は、拘置所で自分の小指を噛み切ったりしていて、やはり普通の精神状態にはいないと思われるので(そもそも、クスリ&和彫りという非常にわかりやすいシグナルみたいのを出していたわけで←これはちゃんと劇中で説明されている)、そういう部分も描けてないと作品の深みは出るわけもなく、パヨク得意の最初に結論ありきの逆算で作った作品になってしまったのはいたく当然というか、そういう作品だったと思う。




ということで、ゴジラ-1.0ショックのせいで、こんな短期間に4回も映画館に足を運ぶハメになったのである。世界各地でまさに血で血を洗う争いがガンガンに発生している最中に、どの作品もその今起こっている事象よりもいまいちリアリティに欠けるというか、変な箱庭感が気になってしまった。まあでも、これが2023年のジャップ映画の実力や立ち位置といったところなのだろう。なんというか、どれも気の抜けた炭酸飲料のようで、心にささってこないのは、観客がそもそもそんなものを求めてないからなのだろうか。ゴジラでさえ号泣したいという人の方が多数決を占めてしまう社会というのは、本当に正しく健全な社会なのだろうか。少なくとも自分にはゴジラを観て号泣するという発想は全くなかった。


また、ネットでの評判もちょっとチェックしてみたが、「月」にいたっては内容というか劇中の主張が監督の主張のように受け取る人が続出しており、それに激昂するというクルクルパーな展開になっていて、これは同じジャップ民として頭を抱えてしまうのである。そんなわけがあるはずもなく、これはただの映画でしかないのである。そもそも全てはスクリーンの中の虚構でしかない。ゴジラが街を壊したのに「けしからん!」と怒っているのと何も変わらないレベルのバカ&アフォ丸出しなのである。この手の人たちは鬼ヶ島の鬼にも怒り狂うのだろうか?この現象が世の中の標準になってしまうと、例えばヒットラーを過剰に礼讃しまくって実際は心の底からバカにしているという表現手法の映画は今後一切作ることができなくなる。見る側の感情を過激な表現や裏をかいた表現を使ってゆさぶっていくというのは芸術の使い古された一つの手法である。SNSは知能レベルの低い大勢にも平等を与えてしまい、それによって現代の社会がこうなってしまったのだろうが、そんな人たちを相手にしないと商売がなりたたなくなってしまっているとしたら、もう映画だけに限らずジャップランドでなんらかの表現を発信ことは難しくなってしまっているということになる。なかなかに詰んでいて爽快なくらいだが、当然これでいいわけはないのである。こうして文明は滅びていくのだろうか。そんなことまで考えさせられたのである。