そして誰も見なくなった ー テレビはなぜメインのメディアではなくなったのか その1:小池栄子以前と以後のテレビ番組

2020年に自分の中で起こった一番の変化と言えば、ついに全くテレビを見なくなってしまったことではないだろうか。昔から「テレビ見ないんでー」というのをドヤ顔で言う人はいつだってそこらじゅうにあふれているが、彼ら彼女らは意外とそう言いつつテレビを見ているのである。少なくとも以前の自分はそうだった。2018年頃は、CMを見る時間の無駄や、CMの前後で同じ内容が流れることに耐えられなくなって、ハードディスクレコーダーに録ったものしか見なくなり、2019年頃にはそれも面倒になって、全ての番組をYouTubeにアップロードされた動画で見るようになった(しかもアップされていない場合は簡単にあきらめるようになった)、そして2020年にはそんな動画さえ視聴するのが苦痛になり、一切のテレビ番組を見ないというか受け付けなくなってしまった。もはや、反日だろうが韓国推しだろうがどうでもよく、テレビ番組を見ること自体が拷問に近いものになってしまったのだ。有名な話だが、今どきのYouTubeの動画は「おはようございます」の「おはよう」と「ございます」の間さえ編集でカットしてテンポのいい映像を作るのが当たり前になっている。そんな正しい競争原理の働いている最先端の分野からすると、全てが横並びの何の進歩もない映像を見せられるのは人生の時間のムダでしかないのだ。


それはともかく、筆者にはテレビがどんどんつまらなくなっていった過程おいて、ある現象を醒めた目で見ていた。今回はそれを書いてみようと思う。そして、これにもあの松本人志が深く関わっているのである。


松本人志に関しては以下の項でも、似たようなメディア論について書いているのでご興味のある方はご一読を





「見いひんねやったら、見いひんかったらええのよ。ただそれだけのことやのに、何で皆に言う必要あるのかと思ってしまう。」


テレビと視聴者の関係を大きく変えるきっかけとなったナインティナイン岡村隆史が、後述する高岡蒼甫の騒動に対して行った2011年8月のラジオでの有名な発言である。早い話が、「文句があるならば見なければいい」と彼は言った。そして、それを素直に受け入れて誰もテレビを見なくなったのである。特にフジテレビは80年代の黄金期から目も当てられない不人気な放送局へと凋落した。誰があのフジテレビがテレビ東京に余裕で負けるテレビ局になると思っただろうか。そして、黄金期には全女子大生が目指したといってもいいフジテレビの女子アナには、今はわかりやすいくらいパッとしない女性しか集まらなくなっている。


個人的にはここまでフジテレビどころかテレビが廃れる大きなきっかけを作った岡村隆史が業界的に全くノーペナであることに理解に苦しむが*1、視聴者にケンカを売って、そのケンカを買った視聴者がテレビ以外の娯楽で満足するようになったというのは、ある意味歴史の転換点だと言えるだろう。それまでは、視聴者は岡村隆史が思っていたように、ミジンコ/虫けらのような別にいてもいなくてもどうでもいい存在だったのだ。そのくらい、テレビ局と視聴者の力関係には差があったのである。





そしてその岡村の発言の元となったのがこちらである。


高岡蒼甫のツイート
2011年(平成23年)7月23日
「正直、お世話になった事も多々あるけど8は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば。しばしば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど。取り合えず韓国ネタ出て来たら消してます。 ぐっばい。」


彼はたったこれだけのことをツイッターで発言しただけで、テレビから姿を消し(!)、離婚(!)まですることになったのである。これで、今のテレビ、というよりは、新聞等を含めたメディアがどういった勢力の傘下にあるのかが、白日の下に晒されることになったのだ。少なくとも、自分はこの時に、「あーそうですか・・・」と思い、「もういいかな・・・」と思ったのだった。こんなものにつきあっても、自分の人生を豊かにしてくれるアウトプットを得ることができる可能性など皆無なことに気づいたのだ。言論の自由などどこ吹く風である。少なくとも日本のメディアはある偏った考えの人たちに統制されていて、そこに違った考えの人が入る余地は全くないことがはっきりしたのだ*2


ちなみにこの時、ふかわりょうが非常に鋭い論評をラジオで行って、筆者は非常に関心したのを覚えている。



ふかわりょう 「今の韓流ブームは完全な詐欺」「現象を偽装するやり方」



だがしかし、彼もその後仕事が少なくなったのかあっさり転向し、反日の先鋒とも言えるテレビ局のインターネット番組でMCとして活躍している。金のためにポチになるのはあまりにもイージーな生き方だと思うのだが。


こんな感じでとりあえず2011年のある一定期間にごく普通の日本人にとって、「テレビもういいかな・・・」と思わざるを得ない出来事が立て続けに起こっているのである。そして、このあたりからテレビは本来持ち得るべき影響力を失い、ヒステリックで壊れたスピーカーのように単にアベガーメディアの一ジャンルに落ちぶれていってしまうのである。ただ、多くの人民はその終わりきっている本質を感覚的に理解してしまったので*3、誰もそんなヒステリーに耳を貸さなくなってしまった。なので、モリカケだろうが桜を見る会だろうが、以前なら政権が簡単に倒れていただろう混ぜ返しにも、それお祭りダーと乗っかる国民もほとんどいなくなってしまったのである。きくところによると若い世代の立憲民主党の支持率はほぼ0%なんだそうだ。朝日化する世界とは逆行するように、日本は彼らの手痛い自爆により、若干真ん中よりに動いているのである。




というのは、メディア論としては誰もがわかっている流れなのであるが、筆者はテレビが極端につまらなくなったもう一つの大きな理由として、小池栄子の出現前と出現後でテレビの番組の作りが大きく変わってしまったことがあると思っている。以下にその理由を記したいと思う。


小池栄子の一般的な評価として、「意見を求められた時のコメントやリアクションが的確かつ機転が利いていて面白い」というのがある。ネットでも彼女がテレビに出る度にそういった感心する声を書き込む人が現れるくらい、この評価は日本に定説として根付いていると思う。そして、この説を決定的にしたのは、またもや松本人志なのである。他にも島田紳助や宮迫などが松本人志と同じ評価をテレビで述べているのを見たことがあるが、なんといっても松本人志が認めたことによって「小池栄子は頭がよく、気の利いたコメントを瞬間的に発することができるので、彼女がいるだけで番組が面白くなる」という意見が広まり、自分で考える能力のない人が簡単に洗脳され、さも自分の意見のように小池栄子のすごさをネットで語るようになったのだった。


ここまではいいと思う。小池栄子のすごさについては本当のことだろうし、彼女に何か非があるということも全然ない。しかし、問題だったのは松本人志の意見を一般人だけじゃなく、構成作家までが信じ切ってしまい、小池栄子のフォロワー的な女性タレントがその後テレビ番組に溢れかえってしまったことなのだ。これでテレビ番組が圧倒的につまらなくなってしまった。あらかじめ練られた当たり障りのないコメントを小池栄子クローンのようなタレントが上手に発したとしても、実はテレビ番組というのはちっとも面白くならないのである。


ここで、フロイトのことを書いてもしょうがないと思うのだが、メディアの本質の一つは洗脳装置としての側面である。そして、うまく洗脳を行うためにはある程度の不条理(イラショナル)な状況が必要なのだ。そのストレスが見てる側の脳を刺激し、視聴者の頭の中で勝手に余韻として残り、深みのある番組に変わっていくのである。小池栄子フォロワーが出ている番組にはそれが決定的に欠けており、だから見ても見なくても一緒のような意味のない毎回同じような内容の番組になってしまうのだ。これが小池栄子が出現した後に起こったテレビ番組の変化である。


そして繰り返すがこの状況を強く肯定し推し進めてしまったのは松本人志である。視聴者をも丸め込むことができるほど、彼の影響力は未だに強いので、皆が小池栄子フォロワーのコメントに対しても非常に肯定的に見るようになってしまっているのであるが、実はどの番組も似たような作りになってしまい、心に残るような面白さを味わうことがなくなってしまった。筆者はこの事象に早くから気づいていたので、彼女たちのお利口さんなコメントには全く興味がなく、いつからかかなり醒めた目でテレビを見るようになってしまった。あらかじめパッケージされた予定調和を見せられても、何か物足りない感じが残るだけである。当たり前だがフロイトは正しかったのだ。


ちなみに、そうじゃなく場当たり的なアクシデントを自分のフィルターを通してうまくお茶の間に伝えていたのが萩本欽一である。彼は松本人志とは全く逆の手法で、作り込まれた笑いの中で、素人をうまく使うことによって、不条理な状況を作り出し、視聴者に毎回変わった不思議な感覚を与えることに成功していた。いわゆる「素人いじり」の天才だったわけである。そして、それを受け継いでいたのがとんねるずだったのだが、なぜか彼らはメディアからも視聴者からも総スカンをくらう形でテレビからキックアウトされるように姿を消してしまった*4。これは単純に視聴者の劣化が招いた結果であるのだろうが*5、その下地を作ったのはやはり松本人志なのかなと思う(そのくらいあまりに偉大ということである)。





こうして、洗脳装置としての役割を自ら捨ててしまったテレビは他の劣化点と共に自らの地位を加速度的に落としてしまうことになったのである。洗脳もうまくできず、娯楽としてもつまらないメディア、となってしまうと、誰も見なくなってしまったのは当然の結果でしかないのだ。見なくなったというよりは、見ないといけない気持ちにさせられなくなったと言うべきであろうか。未だにテレビはあらゆるメディアの中で一番効率よく配信が可能なおいしい媒体であると思うのだが、中の人が何が起こっているかを冷静に分析することが出来ない限り、何をやってもこの凋落する傾向は続いていくと思われる。

*1:正直、干されてもいいと思うくらいのことをやったと思う

*2:なぜか、NHKまでがそのグループに入っているという・・・

*3:ここが日本人の捨てたところじゃない優秀な気質だと思う

*4:「タンバリン教室」のような傑作をいっぱい作っている

*5:それにしても冗談が通じない人間が増えたなーと思うことが多くなってきた